今論序論

 



その為には時間とは何か?から始めます

時間とは

時間と空間の関係

皆さん遠くへ行けば行くほど物が小さく見えるのは不思議だと考えたことはありませんか

当たり前すぎて何をゆうかとお思いでしょうか その説明までする必要はないでしょうが

簡単にいえば視野が拡がるから相対的にものが小さく見えるというのは経験則で本質論ではないのでは?と思います 遠くの物 例えば自動車が近くを走ればすごい速度で通り過ぎるけど遠方でみれば小さく見えますから自動車ものろのろ動いているようにみえます でもそれは我々がその距離感を知っているからで もし距離感も自動車の知識知らない立場から観測したら見比べて小さく見える自動車がゆっくり動いてると判断するでしょう なにをいいたいというと方位でも観測する方向は重なって一つの断面でみるということです そしてそれが絶対観測条件なのです 遠くの自動車のそばにゆけば車は時速60キロで走るのがわかりますがその間に距離が近くなります そのことを経験でわかっいるから不思議だと思わないのです 自動車の大きさを知っているから当たり前のように思いますがもし視野が拡がらないならどこまでも同じ大きさであるという理屈になります 目の前の鉛筆が一キロ離れても同じ長さに見えたとしても理屈の上からは不思議はない なにをいいたいというと 観測とはある一つの断面を通して見ることで同じ物体が小さくなると(見える)ゆっくり動く 大きくなればなるほど早く動く これは我々の観点の時間の進み方が絶対基準になつているからであります  これは変えられません これは逆にミクロの世界も同じです

見方によればミクロになればなるほど対象物は巨大化してゆくといえます そうなれば

その動きは早くなります この事実をそう見えるだけと判断するのは経験則にすぎないのです 観測点の時間の流れが基準になるなら 方位も重なった方向は 遠いほど小さくなります なぜこんな当たり前のことをお話するのか?といえばこれは時間にも当てはまるのでは?と考えるからです 

  時間と方位の関数はグラフでもよくでてくるが 皆さん勘違いしやすいことがある それは現実には方位(距離)は行き来できるが時間はできないということである グラフでかけばそれは紙面上の客観性で 書 けるから勘違い するのであります 過去や未来へいけない 常にその時間上に観測者はいるのであって客観的に時間は見えないのです これは大事な事で解りやすくイメージすれは電車の中から線路をみているようなものです 窓の外の風景が後ろへ移動していく変化から時間を定義していますが当人は未来にも過去にもいけません今しかありません 時間は未来に向かって?進むわけですからそれは電車の進行方向をみているのに当たります 進行方向とは枕木が重なって見えるのが正解で線路をそとから眺めているようにイメージすると勘違い起こすのです というのが現代物理学の客観性の壁なのです 時間は積み重なってみえるものにイメージするのが正解なのです ですからこの概念で時間を再構築しなくてはいけません この考えでいきますと時間量という一瞬の観測量ともいうべき物理量が必要となるのです 枕木の長さは遠くても同じはずです つまり近くへゆけばつまりそのレベルから観れば同じ一瞬ではありますが観測位置から見れば遠いほど枕木は小さくなりこの遠いとはミクロへ行けば行くほど時間量は小さくなるということです それらの一瞬を同時に今の一瞬にするため時間を重ねて考えなくてはならないからです 時間が重なっているとはどうういう事なのでしょう それは観測とは何かということであり それは時間と空間の発祥の極小値 プランク時間とプランク長の不確定原理までとばなくてはなりません

  

時間量とは何か

時間を説明するには時間量とは何か?の説明が必要です この時間量を究極の最小値まで行き着けばそれはプランク定数の不確定原理まで行きます とりあえずこの不確定原理のお話は後にしてこの時間量からはじめます 時間量とはこの例で言えば枕木にあたります この枕木の長さが不確定場の一瞬にあたりこれを時間量となずけます ???不確定場 一瞬

??なんのこっちゃとなりますがあまり厳格に説明すると肩がこりますので

できるだけわかり易くイメージしやすい お話でいきたいと思います

不確定場とは物理でいう場の拡がりのみではなく時間の不確定もいれ

後から説明するML^2=Tの不確定を時間量と名づけTで表す ここで注意してほしいのはあくまでこの概念は不確定性原理の誤差の範囲でこれからでてくるT M L はΔt  Δ」m ΔLの量子的重ね合わせのことです

この説明はよくわからないでしょうが後ほど不確定性原理でします

といいながらまずこの基本的方向性を大上段からお話しておかなくてはいけません

ここだけは最初から理解できなくても当然のところですが骨の部分ですから書いておきます

 今論においては今にしか世界はありません 過去や未来はありません

過去とは一瞬の不確定の拡大方向に内在され今とその過去が一瞬に内在して不確定の時間量の中にある方向 私から見れば光の飛んで言った宇宙方向でありますが

あくまで私の今から見たらそのような方向に見えるというだけでありそれが私の見える宇宙なのです

今論の根本思想

この世界は、”今”の一瞬の統合体により成り立っている すべての現象は観測により成り立ち ”今”に収束しょうとしている しかし ”今”の一瞬が観測限界がありその誤差が不確定場であり 時間量として定義され この時間量は観測レベルにより決定され その同じ時間量の中ではその変化 動きはエネルギーの増加として表される 上位レベルから下位レベルへの観測が時間概念や空間間 質量などを現出させる 観測の最小限界は不確定性原理であり (その最小時間量をレベル1として置く) その次元式からMT^2の質的変化により時間量の飛躍(下位レベルから上位レベルへの上昇)が生じ(これを物質から生命へ進化と表現)生命が生まれ 感覚 意識が進化してこの世界が成りたっている。それにより、ML^2の時間量の質的変化が伴う これらのレベルは時間量の重ねあわせとなり”今”を形成する 

上記の原理から生命とは何か宇宙とは何か この世界の成立がすべて説明できる  以上!  ごくろうさまです

というわけでこれから一つ一つ説明したいと思います

今論序論

存在するとはなんだろうか  。数はどこまでも小さくできる。円周率でも に無限に小さく計算できる。つまり無限小という概念で現せる しかし、実在は違う 例えば、鉛筆で点を書けばそれはそれなりに範囲を持つ素材となり、どんなに小さくても、そのあとの存在を〜占める領域が必要である。つまり、限界小が、あるということである。

これを、これ以上観測不可能として、最小不確定性場と名付けよう 物理学では、電子等は、大きさを、もたない。存在として、説明される。。もうそれ以上分割できない。広がりという概念は不確定場に他ならない。この点の存在を観測した時、時間が流れる これは、意識ではなく、感じても同じである。感じる等は、その瞬間、時間が流れる 時間が発生する。何かが存在するということ 観測するということは、同時に、時間が流れる 二つに分割できない。時間それは、一瞬である。この一瞬は、感覚的な時間である。次に、この点を沢山重ねて上から見てみると、これは、やはり、点にしか見えない 点が10個重なれば10点という。シャレではないこの10とは点の密度というようなもの。になる。これは、質量のヒントがあるではないだろうか。今論では、この一瞬の重ねあわせがこの世界を、作り出していると考えている。一瞬の重ねあわせとは単なる波の重ねあわせとは違い、時間量の重ねあわせのことで、分割できない一瞬はどのレベルでも分割できない一瞬であり一瞬の感覚は同じである。しかし上位レベル(後ほど説明)の一瞬の中に下位レベルの一瞬が包括されている。1秒を上位レベルの一瞬とすると下位レベルが0.1秒が10回そこに包括されている。上図でいえば枕木を間近から遠くまで重ねたようなイメージでだんだん枕木が遠くほど小さく見える(枕木が大きいほど上位レベル) そのまま重ねたイメージです 枕木が遠くても実際は同じだというのは客観的にはそうですがそうは考えない 絶対基準は観測側にあると考えるのです 大事なことは、客観的時間の流れではなく、感覚的一瞬にこそあるということである。、分割できない。一種の重ねあわせ、このアイディアでこの不思議な生命現象を説明できる、可能性が今論である。

上の説明からわかるように何かを観測した瞬間時間が発生する 存在すると時間は裏表なのですAのように小さな丸を認識するのにはその周りに余白が必要です つまり場の拡がりです 上の例では余白がドーナツ自身にあたるわけでつまり自分自身になります 装考えるとその余白とは場ですから拡大解釈すれば空間にあたります あれ!そうすると空間とは自分自身ということになります 厳密には場と空間とはちがいますがイメージです

時間量を説明するため不確定原理から始めたい

   



一瞬を絶対量(今とは)



今とは何か 今の一瞬 過去 未来はない ただ現実の実在するところそれが今 今のみ実のリアリティこれを真実 絶対としなくて他になにがある目の前の実感生きている実感過去や未来は過ぎ去ったりこれからきたるという予感

はすべてまだ実在しない幻想あるのは今,今なのである この 今なる瞬間を最優先でなくてはなにがあるというのだろう  それゆえこの一瞬を絶対視すことが理論の所以である しかしそれは理性ではない 今を感じる感覚である

感覚とはその一瞬を 感じる感覚とは意識ではないか? 人間においては意識である 動物では感覚であろうこの感覚を絶体視するならばもっとミクロからこの感覚レベルが発生する根拠がなくてはだめだ。 突然発生してきたではご都合主義だ いやそれ以下のレベル素粒子レベルいやこの世界が創造された時からその卵がなくては感覚が絶体条件にのはずだからという想定で万物創成は意識ありきということです もう一つは不確定性原理の時間誤差を観測誤差と考えこの一瞬にこの時間誤差の考えを導入したことです

これは不確定性原理が観測をとおして通してでてくる原理であることです  原理ですからこうなるというだけである 

これに客観性の限界を見た気がします。これは観測者の主観誤差があると思います主観誤差とは時間の誤差であり一瞬誤差であると考えました そこでこの一瞬には素粒子クラスからレベル段階観測量を想定したのです これは時間量となずけました そして意識は 波動として考えこれを時間量の波とかんがえました観測するとき時間量

の波が発生する まあそういうわけで独自性をもっています 間違った考えだと思う方

もおありでしょう どしどし ご意見を下さい

から

今とは(1)






一瞬の意味するもの

なぜ一瞬を絶対量としたのか

一瞬は時間の流れはない 少なくともそう感じられる時間だしかし細密で計測すれんば時間 が流れる 一瞬は時間量だ 人間レベルでは一瞬は時間を分けられないそれ以下のレベルでは時間が流れることが解る時間があれば2つに分けられる なにを当たり前のことを話すのか

この感覚がわかってほしいからだ2つ3つ分けられることが一瞬ではないからだ このように生命によって一瞬にちがいがあるとんが考えるからだこれが時間量の違いである 生命の存在以下であると一瞬という感覚はない

細胞以下のレベルでは量子効果が始まるからそれ以下は一瞬ではな時間量の世界で説明できる つまり時間量の変質である これを時間誤差であると考えるとすれ不確定性原理である

こうして一瞬に絶大量をあたえることで主観と客観を融合させることになる つまり感覚と時間誤差を共通の舞台ののせることになる そうなるとその連続は波動性であろう一瞬一瞬の連続は波動であろう この世界は量子科学から光からすべて波動であらわせるつまり時間量の波動性である 観測すれば量子と説明でき不確定の状態は観測していないといえる 観測はその位置を知るか運動量をしるかである 知るとは計測できるかであり誤差の最小値のことであり時間量に違いがあるにせよそのレベルでの計測値であり位置がわかるとその誤差が最小値であり運動量は不確定になる というこであります  観測すれば収縮するということだ




       

上記のように生物はたくさんのレベル層の重ねあわせになっている これらのレベルは”今”を柱として一瞬量の重ね合わせで成り立ち下位レベルになるほどその時間量は小さくなる しかしながら一瞬の絶対時間感覚は同じであり それゆえ客観的時間は下位レベルになるほどゆっくり流れる 上位レベルの一瞬の間の下位レベルの時間感覚はたくさんの時間の流れを感じる (A~Bの間の時間は顕在意識の一瞬幅)であるがそれが下位レベルになればなるほど一瞬ではなくてそのレベルでの絶対時間感覚は長くなる ただし客観時間は同じである 何度も言うように一瞬を感じる絶対時間感覚がすべての基準に優先する AからBへ時間ベクトルをとると下位レベルにいくほど”今”に近ずく 同じ一瞬の不確定量ではあるが上位レベルになればなるほど少し意識化が遅れる これがリベットの実験の結果である