今論
意識と物理の接点
科学は客観的でなくてはいけない しかし究極までゆくとどうしても観測問題がでてくる 今だに論争中である 波動の収束 シュレジンガーの猫などの論議がそうである この観測問題は不確定性原理に関わることでありこの不確定性原理が客観的誤差ではなく観測側も巻き込んだ誤差というか不確定の本質的テーマであります
つまり客観的といわれた科学に観測側も導入した原理になっているところが重要なのです 究極においてはこの二つはいっしょにかんがえなくてはいけないところがポイントなのです であるならこの原理に観測側の概念がどこかに反映されなくてはいけない
不確定性理論がすべてなら
不確定性原理は単なる粒子の観測の誤差ではなく本質的な空間と時間と質量の密接な関係を表している これは観測側も含む場の性質ともいえる本質的なものである この場を観測すればこの場との干渉のような 結果として不確定性原理が成り立つと考えられる いかえれば観測という人の意識場を場に組み入た結果という考え方ができる
不確定性原理が観測側も入り 正しければそれがすべてでなくてはいけない
h≦ΔpΔx (1)
h≦ΔEΔt (2)
h=mL2/T (次元式) (3)
(hはプランク定数)
の中にすべてがなくてはいけない それ以外の客観的存在があってはならないのであり今の物理学ではこの理論をあくまで客観的に説明しょうとして運動量と位置 エネルギーと時間の関係で解釈している しかし観測により対象物の影響を与えるなら観測との関わりから本当はその中に観測系も入らなくてはいけないわけでどこにこの観測系を組み入れるかということであります
つまり(3)がすべてならそこから観測量ともいうべき概念を生み出しそれに従い客観量ともいうべき拡がり量であるLと質量Mが存在してくるという
発想をすればいいわけでそれは時間に関わる何かであることがわかってくる そこに何か存在するとは存在を認識するその間に時間が流れることであり存在するとはその場を占有するということでありそれを実感するとは質量の存在でありつまりLとMが客観的に観測できるということである では時間は客観ではないのか? 時間は客観ではないのである 距離は前に進んだり戻ったりできる 質量も存在物としてその重さを減らしたり増やしたり自由にできる しかし時間は過去に戻れない 未来にも進めない あくまでも観測系と同じ流れでありそこから一歩もはみ出せない 時間は観測場そのものであることがわかる とはいえここは大変な考察すべきところであって結論は観測とは時間そのものであるという結論になった
丸い玉を外から見てながめるのではなく私たちはその玉の内側から玉そのものを観測しているというのがイメージとしては正しいのであり玉のそとには何もなく空間はなく玉以外はその外に何もない その玉を客観視するのに時間の存在が必要であるし少し話が飛ぶがつまり意識の存在につながるわけである この時間という概念の中に生命の進化と意識の成長そしてこの宇宙の存在まですべてが説明されなければならない なぜなら不確定性理論がこの世界の根底をなすものならこの次元式の中の時間 空間 質量以外の存在次元量はないからである ではどう説明するのか 今論では時間と意識との関係からプランク時間を不確定最小時間量と考えこの時間を最少意識量と置き換える つまり一瞬の不確定時間量の最小時間単位である この最小時間単位を整数倍していくことが一瞬一瞬の積み重なりであり大きくスケールアップしてゆくと人間の感じる一瞬になる
この世界は、すべてレベルごとの観測で成り立っています 主に上位レベルから下位レベルへの観測ですが観測といっても後述しますが、望遠鏡や顕微鏡で見るということだけではありません。スリット実験で言えば、この粒子を観測するのは、スリットです。スリットは粒子の内容を予測してそれに対応して期待される。結果を出す上位レベルの場の装置です。大きく言えば、その実験装置そのものでそれを観測している人間の場であります。実験レベルでなくても、この世界の感じるものこれ自体が、観測にあたります。この感じることは、すべての生命に在るもので 感じるとは何かに作用して出てきた結果です。また、観測等は、その存在物を認めることであり、そこに時間が流れます。つまり時間の存在です。当たり前の様なことをお話していますが、とても重要なことです。この時間量方向への不確定場とは生命で、いえば、感覚のことなのです。人間で言えば、感覚を統合する意識もそうです。前述したように不確定場とは空間方向へは、場の不確定として、時間方向へは、一瞬の時間量の不確定のことです。意識とはリベットの実験によれば」人間の顕在意識レベルでは、0.5秒かかって作られる。詳しいことは、リベートの実験を読んでもらうとして、つまり、この0.5秒かかって意識は、作り出される。ということです。手をけがすると、その痛みは0.5秒かかって初めて。痛いと感じるらしいのです。しかし、私たちは、この時間幅を感じません。けがした瞬間痛いと同時に、感じると意識します。これは、この0.5秒間に、この痛いという感覚を作り出しこの0.5秒不確定にして時間幅ををなくししまう そういうことを脳の中で、操作してけがした瞬間に一致させてしまう こうして我々の顕在意識は、時間幅を持つのです。反論が来そうですね。たとえそうでも客観的時間は、正確に測れるではないか。それはそうです。大事なことは、それを感じられるかどうかです。この感じることが、今論では、絶対量なのですつまりリアリティです。人間の一つ下のレベルでは、つまり、肉体レベルでは、もう少し一瞬が小さくなるでしょう。0.1秒とか0.2秒とか反射神経とかが、そうでしょう。これは、意識しない。体の動くレベルです。歩いたり、反射的によけたり、意識しなくても、体を守ったり、動かしたりするレベルです。その下には、体のバランスをとる。レベルがあります。体温調節とか血圧とか体の微妙な調節ですこれらは、もっと時間量が、小さくなくては、この微妙な体の調節は、効かないでしょう、気分が悪いと体にも影響を与え、胃が、痛くなったり、体が熱くなったり、寒くなったり 臓器レベル細胞レベルなどそれぞれのレベルで意識レベルよりはるかに繊細な時間量をもち これらのレベルが細胞レベルまで”今”の一瞬を通して、統合され人間の生命を作り出しています。これは細胞内のDNA まで環境適合のため影響あたえているはずで つまり、量子的関係までゆきます。おそらく感覚は細胞レベルまでで、細胞内レベルでは、量子的な関係に質的転移をおこしているでしょう。これは、後ほどお話します。
時間量とは不確定場のこと。
この時間量とはこれに当たるレベルでの一瞬と感じる時間の流れのことであり、この時間量に絶対的基準をおき時間も空間もこの世の中に存在するすべての事象は、この時間量の相対的現象の現れにすぎないということなのです。この一瞬の時間量は、不確定場として、進化して生命を生み出している。なぜ陽子は同じ電荷同士なのに集まって原子核を作るのか ?同様に電子もその周りを回るのか?なぜ原子は集まって分子を作るのか分子はどんどんあつまって物体を作るのか?あるいは生命のもとのたんぱく質などという複雑なものを作るのか ?そして生命が発生するのはたんなる偶然なのか こうした本質は科学では説明できません それらの前提で理論を構築するのです しかしこの時間量がその意味を解きます
そのためにはまず不確定場とは? が必要でそれは、不確定性原理から生み出された理論でまずは、不確定性原理から説明しなくてはならない。
まず 時間量とは一瞬一瞬の時間スケールの幅のことであり この幅での時間の前後はない このスケールが量子の世界から宇宙まで階層的に存在しこれらのスケール が重ね合わせの世界になっているということであります お話ししたように一瞬一瞬こそが絶対量でありそれゆえそれぞれのレベルで不確定であり空間 時間 質量などはこの時間量のスケールレベルの反映にすぎないということなのです そしてこの時間量が 量子 から生命そして進化 宇宙の成り立ちまで創造しているのです この一瞬の時間量とはつまるところ私たちのレベルでは意識のことなのです この意識はこの配下に たくさんの潜在意識場がありそのレベルでは少しずつ一瞬の時間量が小さくなって行きつまりそのレベルでの絶対時間の流れはかわらないが上位レベルから観測すればものすごい速さで事象が進んでゆくように見れ 逆にそのレベルから上位レベルを観測すればゆっくり動いているように見える これは本質的に量子レベルまでゆきます なんどもいうようにこの時間量は客観的な時間の流れではなく一瞬の幅のことでありこの 一瞬はどのレベルでも同じ感覚であります それゆえ私たちが一瞬と感じる間に下にさがるほど主感時間は同じでも客観時間ではその何倍 何百倍の一瞬の積み重ねになり下のレベルでははるかな時間となるわけです 私たちがほんの2~3秒と感じていても細胞レベルでは1時間あるいは1日正確にはいえないですがそういった世界があるはずです このあたりは別項でお話しています
今という一瞬が絶対基準となり すべての出来事は今の存在のために成り立っている 宇宙は今のためにあるということです 意識の流れと時間の流れがペクトル的に同じだということは古今東西同じような思想はありますが時間そのものが意識であると考えるのです 現代科学では時間は変化せず一定の流れの前提で理論は成り立っている しかしこの時間も相対性理論からわかるように観測場の位置により今という時間が違ってくる 観測場によって”今”が違うということである つまり観測場の時間絶対性であり その瞬間時間を”今”と称する 今を感ずるのは意識であり意識の絶対性ということである ここで大事なのは私のいう意識が皆さんの考える意識とは違うかもしれない 人間レベルの意識(顕在意識)は自意識とかいうもので高度な意識である 意識は原始的意識というものでこれは別項で説明してある これから意識とはこの原始的意識のことであるとご理解いただきたい
我々は過去や未来にすむわけではなく現在つまり”今”から抜け出せない”今”そのものである 私はこの今という時間が 空間より実在性の高いバロメーターではないか考えている 今とは何か?それは一瞬一瞬の時間量のことで時間の変化とは一瞬一瞬の意識のことで意識とは過去未来ではなく今そのもの その反映がこの世界であると考えている つまりこの一瞬一瞬の意識のつながりが時間を感じさせ始めと終わりをづくりつまり因果律を作りこの世界を作っていると考える 意識こそがすべての力の源で この世界は四つの力プラスアルファの力の均衡で成り立っているこの力は意識つまり時間の変化であり時間の変化 = 力の世界でこの力は今を成り立たせるために必要なパワーでありそれゆえ今がある お分かりいただきますか つまり意識とは今の連続のことで次々変わっていく時間の変化が力としてあらわれ今を成り立たせているということです
不確定性理論がすべてなら
不確定性原理は単なる粒子の観測の誤差ではなく本質的な空間と時間と質量の密接な関係を表している これは観測側も間に時間が流れることであり存在するとはその場を占有するということでありそれを実感するとは質量の存在でありつまりLとMが客観的に観測できるということである では時間は客観ではないのか? 時間は客観ではないのである 距離は前に進んだり戻ったりできる 質量も存在物としてその重さを減らしたり増やしたり自由にできる しかし時間は過去に戻れない 未来にも進めない あくまでも観測系と同じ流れでありそこから一歩もはみ出せない 時間は観測場そのものであることがわかる とはいえここは大変な考察すべきところであって結論は観測とは時間そのものであるという結論になった
丸い玉を外から見てながめるのではなく私たちはその玉の内側から玉そのものを観測しているというのがイメージとしては正しいのであり玉のそとには何もなく空間はなく玉以外はその外に何もない その玉を客観視するのに時間の存在が必要であるし少し話が飛ぶがつまり意識の存在につながるわけである この時間という概念の中に生命の進化と意識の成長そしてこの宇宙の存在まですべてが説明されなければならない なぜなら不確定性理論がこの世界の根底をなすものならこの次元式の中の時間 空間 質量以外の存在次元量はないからである ではどう説明するのか 今論では時間と意識との関係からプランク時間を不確定最小時間量と考えこの時間を最少意識量と置き換える つまり一瞬の不確定時間量の最小時間単位である この最小時間単位を整数倍していくことが一瞬一瞬の積み重なりであり大きくスケールアップしてゆくと人間の感じる一瞬になる
意識の階層