感覚とは何か

感覚と何か

感覚とは絶対的なものである 例えば痛いと思うのはその人しか感じられないものでありほかの人にはその感覚は正確に客観的に感じられるものではないということである

つまり客観的に測れないものである 私が痛いと思う時この痛いは本当に痛いのであり数値化できないのであるこの痛いを他人に分からせること

はできない絶対的感覚だからである 説明するのも難しいなあ 

色もそうである科学的には色は光の振動数で説明する しかしながら色そのものは赤青黄などは説明のしようがないものである お互いに同じ色を見ていると仮定の上で話しているわけである 聞くことも同じように空気が振動して鼓膜に伝わりそれを音として認識する あいうえおを 聞き相手もあいうえおと同じように聞こえているか本当に同じ あいうえおなのか通じているから同じだろうと推測するしかない しかし一つの細胞が人間になるまでにたくさんの神経細胞が絡み合い大きく成長するそれらの神経細胞が

同じような地図を描くのだろうか 多少の差異があった方がするのを普通だろう であれば 考えてみればこれらの感覚がもしすべての人に同じように見えたり聞えたりしたらむしろその方が不思議ではないだろうか そう考えるとむしろこの感覚の方が先にある人間同士を超えた共通の感覚が先にあると考えた方が何か合理的に見えてくる

実際 視覚で言うと視野の 3 %ぐらいしか視神経には光が入ってこない 眼の中心部分に光は集中し周囲は能の中で作りだされていくという そんないい加減でどうしてほとんどの人間はこの世界を同じように見ているのだろう 例えば思い切り回り止まれば周りの視野は止まったら同時にはっきり見える止まった瞬間視野が簿けることはない勿論 これは一瞬の時間の問題と説明はつくが周りの環境はそこに厳然としてあり我々の脳を通した光でこの世界がつくりだされるとは思えないことである ほとんどの人間が同じような世界を見て同じように聞いて同じように味を感じ同じように喜び同じように悲しみこういった感覚感動が一致するのはなぜだろう 脳の中でこうした感覚がつくりだされるなら中には楽しい時に苦しんだりけがした時に痛いと感じなかったりもう少し例外が多くてもいいのではないだろうかというあまり科学的説得力のない推測の言い方ではあるが これはほとんどの生物に当てはまる 犬と人間の違いはない 犬でもうれし時はうれしいと表現する 怒る時はやはり怖い 怒る時に喜ぶ犬を見たことがない まあこのあたりはいくらでも理屈はつけられる進化してきた元が同じだからそうなるそれもそうだ あまりこのあたりは追及するのはやめよう

もう一つ重要なことがある

経験した感覚以外は想像できないということである。 どういうことかというと具体的に視覚について考える

映画のスクリーンに例えると視覚と少し違うことがある それはスクリーンの境い目が映画はわかるということである スクリーンの外は真黒である我々の眼はどうだろう?見えないとこと見えてるとこの境い目がわかるだろうか。瞼の上は黒くなってない!何もないのである!境い目が分からない 人間の感覚では目の境い目は 黒くならないないのである 見えないということは色も無いのである何もないのである しかし、天井があるのはわかっている それは経験で知っているからである もし経験がなかったら想像できるであろうか?見えてるところがすべてと認識するのではないだろうか これは私たちがこの世界が三次元の 360度全部見えていると

思い込んでいるだけかもしれない この世界を 360度以上に想像できないからである これはほかの感覚器官でも同じである味でも甘いからい苦い酸っぱいあとはうまみ?それ以上の味を想像できるであろうか

においは何万種類とわかるらしいが経験したごと以上の新しい感覚は想像するとかできない

何を言いたいかというと我々の世界は感覚によってつくられたイメージでそれ以外の世界があっても感知できないということ たとえ目の前に何かが存在してても五感では感知できないとしたらなにもないと同じことだ

意識こそがすべての力の源で この世界は四つの力プラスアルファの力の均衡で成り立っているこの力は意識つまり時間の変化であり時間の変化 = 力の世界でこの力は今を成り立たせるために必要なパワーでありそれゆえ今がある お分かりいただきますか つまり意識とは今の連続のことで次々変わっていく時間の変化が力としてあらわれ今を成り立たせているということです  

 

  

感覚は絶対量であります 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものはをれを感じる本人しかわからないです 客観で説明できないから科学では無視されます 客観性でないと理論として成立しえないと科学信仰(物理学)から外れるからです( しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません

 例えばクオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない いや解ればこの世界が説明できるかも知れない このお話は今論で説明してありますがそれと感覚との関係です

前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である 皮膚に刺激を与えそれを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ被実験者は感じたというわけであるが、本人はそのタイムロスを感じていない つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告する、しかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである。その一瞬を不確定にする 意識化なるのにその時間 かかるが、その時間を感じさせない むしろ消し去るようにして意識は形成されることから時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた そこで次のように定義してみる 

観測すると場が収束するとはその場を意識するということである。

意識とは、リベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる、 これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたと 考えることもできる つまり意識の波動である 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり感じるのは意識があるのである 生物として存在するのは感じることでありかんじれば時間の収束があり場の収束である感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう、 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるようにある時間量をもち、時間の不確定をつくりだす

それが細胞膜全体に感覚を発生させる それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる 素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって素粒子から大きくなるに従い分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである感覚は絶対量であります 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものはをれを感じる本人しかわからないです 客観で説明できないから科学では無視されます 客観性でないと理論として成立しえないと科学信仰(物理学)から外れるからです( しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません

 例えばクオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない いや解ればこの世界が説明できるかも知れない このお話は今論で説明してありますがそれと感覚との関係です

前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である 皮膚に刺激を与えそれを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ被実験者は感じたというわけであるが本人はそのタイムロスを感じていない つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告するしかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである

その一瞬を不確定にする 意識化なるのにその時間 かかるがその時間を感じさせない むしろ消し去るようにして意識は形成されることから時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた そこで次のように定義してみる 

観測すると場が収束するとはその場を意識するということである

意識とはリベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたとかんがえることもできる つまり意識の波動である 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり感じるのは意識があるのである 生物として存在するのは感じることでありかんじれば時間の収束があり場の収束である感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるようにある時間量をもち時間の不確定をつくりだす

それが細胞膜全体に感覚を発生させる それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる 素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって素粒子から大きくなるに従い分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである 時間収束とは感覚  意識のことでありつまり意識の波動のレベルによる重ね合わせがこの世界を創造しているといえる 今論でいえば今が意識こととであるそれでは素粒子からの流れを説明していこう   

 時間収束とは感覚  意識のことでありつまり意識の波動のレベルによる重ね合わせがこの世界を創造しているといえる 今論でいえば今が意識とのことである、それでは素粒子からの流れを説明していこう