実在のリアリティ



生命を科学では説明できません 例えば脳の中の神経の配列で意識は作られるといいますが幼少期から神経の配列は遺伝子によりきまったものではありません むしろ自由に変化してそれぞれまったくちがった神経配列を作ることがわかってきました ですから脳の役目の本質は配列にはありません そこを電気パルスが通るのだとはわかりますがそれで意識が作られる仕組みがわかったわけではありません テレビでたとえると電気の流れる仕組みは理解できてもそれにより写った映像はなんの意味を持つのか?映像にも意味も足す存在まで追及しなくては片手落ちでしょう いまの科い学はそこまで追及できないとして客観的という絶対的信仰の中ににげこんでいるというのが事実でしょう だからその前提でその仕組みを説明しょうとしてできるものと信じ込んでしまった科学者ががごくろうな徒労の時間を費やしていることも残念です もっと単純に感覚を考えてみましょう はりで指でも刺す指したとしてみます 痛いですが痛いは科学的に表現できますか?数値であらわしてもその傷みは客観的には 表せません ということは現には著述できない事です  しかしそのような感覚が実在することは事実でありそれを説明できないと科学的ではないと逆批判を受けます しかしその感覚は実在するのであり幻想ではありません 科学的に説明できないだけなのです

科学と生命を統合いて今の科学概念では発想できない発想を新しく追求したらこうなるというのが本論で統合して今論だ 科学では空間 時間 質量など客観的事実というがこれらの量を認識する感覚がある

ところで意識とは何か     意識の定義

西洋では一般に意識は自己意識のことをいいます つまり自我を思う心です デカルトも我思うゆえに我ありといっています 人間以外では心はないとされ人間のみが神がつくった子として動物は心がないとキリスト教では説明されます 意外にこうした考えことがわかっきました 日本では万の神として万物に神が宿ると考える神教があります 意識の定義の仕方は国によって違います 現代科学では意識の下に無意識層があり意識のレベルが違うわけですが 普通に意識とは心理学では自己意識のことで顕在意識の 現代物理学がいま壁にぶつかっている問題は客観性とは何かという問題なのです 究視覚 聴覚 味覚 臭覚 接触感覚 などがある  例えば痛いという感覚はその人しかわからない どれだけ痛いか 数式化できない 客観視できない しかしこの痛いは本当に痛いわけで幻覚ではない 相対化できない事実であるからこれは絶対量である つまりこの感覚はすべての客観事実の前提にかかる量でありながら数式化できないから物理学では無視されている

究極の素粒子が発見されたとしてもではその先に何があるか?どこまでも謎は尽きないわけです

波動の収束問題も何十年と論議 し末だに意見が分かれてます これらはすべて客観性の壁なのです 波動の収束つまり観測問題を少し考えてましょう

電子とか光がスリットを通る実験で観測しないと張力というけったいな力を持つと説明されています

科学で客観性というがこれを認識するには 視覚 触覚などを通するわけでまずは我々の感覚がその前になくてはならない まずは感覚がわかるためには 意識がなくてはならない つまり意識があって初めて客観性を認識しているわけだからまずは意識ありきというわけである この場合の意識とは人間が自我を持つというレベルの意識の意味ではきは二つのスリットを同時に通過して観測したときは波動ではなく粒子として観測される現象ももはや観測者を巻き込んだ話しでありながらそこまで踏み込まないのです

1  実在のリアリティとは

これからお話しするのはこの意識と物理学の基本原理を結び付る一つの考え方をお話ししようと思っています

現代物理学においては相対性理論と量子論が基礎理論になっている  しかしこれらを観測する主体つまり意識側は無視されている 客観的基準の前のそれを認識する波動と粒子の二面性を持つというお茶を濁すような説明で逃げているのが現状です これは観測側のつまり意識というものが科学的に解明されていないからです 科学的とか客観性とかにこだわって宇宙並行論とか超ひも理論とか滑稽な理論を持ち込んで説明しようとしているわけです 超ひも理論は 10次元の次元数を持ちその紐にはなくどんな生物でも原始的な感覚を持てば その感じるという事が意識があるという事である しかしながらこの意識は科学的には何ら解明にされていないからそこまで立ち入ることができないということだろう とにかく意識が大前提に来るなら意識からこの世界を解明するのが道理というものである というわけで意識とは何だろう

ことである その下にフロイドやユングなどがいろんな定義をしていますが私がお話しする意識とはもっとはるか下までのレベルの意識のことです どんな動物でも意識が無ければ痛いとか熱いとか最低限のレベルの感覚さえわからないはずで逆に言うと感覚があるということは意識があるということです 人間の自意識は特別かもしれませんが逆に言うと下等動物ではその感覚そのものが意識があるといえるかもしれません ただこの意識は、人間の自己意識とかレベルの高い意識のことではありません この意識のことを原始意識とも呼ぶべき感覚のことです 無意識とは意味が違いますがその生物レベルでの一番表面に出てくる意識のことです 感覚と呼びたいところですがその感覚を統合して生物在らしめているわけでその感覚統合を意識と解釈するならやはり原始意識と呼ぶべきなのです 

何かを感じるといこの意識はどこまで下がるのでしょうつまり犬や猫その下の虫 微生物 ウィルス タンパク質 もっと下のアミノ酸から分子やもっと下の原子どこまで行くのでしょうか ?

そんなに行くわけありませんでしょうか?先ほど無意識と原始意識とは違うとお話ししましたが人間にははるか下のレベルの意識が昆虫や微生物では表面意識なのかもしれません 現代科学ではまだまだ未知のレベルです ゾウリムシなどの動きを見てますと何かに触れた瞬間あわてて逃げだすようにも見えます あれはこのレベルでも何かを感じ取っているわけでそれは機械的な動きではなくう感覚があるということでしょうか? であるならば何かを感じるわけですから意識があるといえるのではないでしょうか 意識がどのレベルから発生してきたのか?もし微生物から発生してきたと考えるなら意識は何らかの科学的な説明で可能なはずです  心が客観的に説明できるなら しかしそれは唯物論的で意識 心が物質からできてることになり物理学の観測問題(後述)が逆に説明できなくなります 今や現代物理学は客観性の限界に来ておりこの観測問題も何十年間にわたり論争があり いまだに結論が出ていません もし唯物論的なものでなかったらこの意識はもっとはるかレベルの下の素粒子まで行かなくては発生要因が説明できません ところで分子生物学を少しかじれば 生細胞は量子レベルの効果で働いていることがわかります 陽子や電子を輸送するミトコンドリアは直径 1ミクロン(1センチの 1/10000)以下であり細胞膜の幅は 40ナノメートル(1センチの百万分の 4)しかない DNAの二重らせんの断面の大きさは 2ナノメートルであり 大きなタンパク質のサブユニットにさえ20ナノメートル程度である 生命ははるかに微細な電子のやりとりのレベルであり ある時期から突然生命が生まれたのではなく 本質的に量子のレベルまでかかわってくるということだ つまり生命とはこの宇宙の成り立ちから関わることであり たんぱく質ができてそれから生命が発生したのではなく もっとはるかに根源的な存在なのです ただこの意識は量子のレベルから関わるなら 原始レベルではもちろん我々の考える意識ではないわけで これからお話する”今論”で

原子レベルの時間飛躍から我々のレベルまでの意識の進化という時間の重ね合わせの世界をお話しようと思います                 

 

                              

 

科学の客観性もその前にそれを感じる感覚がありこの感覚がありきで客観性も意味を持つ その感覚で唯一共通認識を持てそうなものはそれは一瞬という時間の感覚で実在のリアリティ  一瞬

ある この一瞬は例えば 1秒はだれが感じても 1秒の感覚である それを1分とか 1時間とか感じる人はいません  もちろん 1秒といえその感覚は人により多少のずれはある しかしこれは一瞬という感覚でありその感覚は客観的に測れるものではなく あくまで主観的なものでそれゆえ相対的なものでなく絶対的なものである この一瞬はこれ以上分割できない時間感覚のことで もし二つ判断できたらこれは一瞬ではない 生きるということはこの一瞬に存在することで決して過去や未来に存在するわけではない かつ移動できない この一瞬の連続で時間が流れると感じるのです 我々はこの一瞬に生きているのです この一瞬とも感じる感覚それははるかミクロのレベルでも人間と同じ一瞬であろうか?この一瞬の間に二つ以上判断ができたらそれは一瞬ではない  例えば細胞レベルの時間はその一瞬のあいだに細胞は何百というたんぱく質を作り出し驚くべきシステムで細胞は分裂する 1秒あたり数十塩基ノスピードでDNA上の数百箇所から同時進行して30億文字の複製に約8時間で完成させる これらはコンピュタのようにシステム的に最初に一つボタンを押せば後は何の判断もなくたんぱく質を作り出すであろうか?そんな機械的なわけはないことは少し生物学の本をかじればわかる 最近 鷲が森の中をものすごい速さで木と木の間をくぐりぬけてゆくのをテレビで見たがあれも瞬時の判断が必要なわけでそれは一瞬の時間の間に人間の何倍もの判断力が必要なわけで鷲の時間の進む感覚は人間の何倍も長くなくてはいけないのではなかろうか? つまり人間の1秒は鷲の中では3秒と5秒ではないのだろうか? 正確には数値はわからないが人間とは時間のずれがあると考える パソコンの文字打ち込みで気付いたことだが のろい私でもいつの間にか 1秒間に 5文字ぐらい打ち込める(時もある) しかしこれは 無意識の中で手が動くのであり 一つ一つ判断して打ち込んでいるわけではない  しかしながら打ち込んでいるわけである これは明らかにもう一つ下の潜在意識が訓練で働き出したのであり、顕在意識の下にもう一つの無意識層があることをわからしてくれる 顕在意識では 1秒の間にこれだけの判断をすることは不可能である つまりほんの1秒間の間にたくさんの判断を必要とする過程が実行されているわけであり 我々がその1秒を感じる感覚がどのレベルも同じならあり得ないことである!我々の世界では 1秒は 1秒であるがその1秒の間にミクロの世界は 1時間 1年過ぎているなら理解できる たった一つでも実証例があればそれはたくさんの意識レベルでの時間の進み方が違うといえるのではないだろうか

imaron1 今論 生命とは 主観性と客観性の統合

この理論はたくさんの次元を導入したり素粒子のようにそのも元は力子を説明するため新しい粒子を予言したりパラメーターが増えていく なぜ増えるのか それは客観性のためでしょう 大体主観性を無視して理論を構築したところでこの世界を統括して説明するというのには無理がある 主観も組み入れ理論を統合しなくてはできないとかんがえ考えなくてはいけないと思います 今論はそういう意味でまったく新しい論理です 主観と客観

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