スリット実験から観測へ
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波と粒子の関係 スリット実験から観測へ
どんな物質もは波と粒子の両面性をもつという性質は言葉では表現できてもそんなものかで終わりではだれも理解することはできない このテーマはこれで終わりではおかしいのであってこれを解明するのが科学ではないか 自然界はそうなっていると説明してお茶を濁しているというのが現状だ さてこの問題の底には何が本質としてあるのか それを解明しなくては先に進まない. 本質的には粒子が波動性をもつを考えるより波動性がある条件下 で観測で粒子になるという方が説明しやすいということはあるが私の考えではこの世界は波
動(不確定場)で我々の観測場においては粒子性(確定場)を要請しているという考え方をしています
どういうことかというとスリットに向かう電子や粒子はまだなにも決定していない不確定場でこれが確定であり 実験場の要請に従い期待されうる結果をだす すなわち不確定場を我々のステージ(スリット実験(時間量が大きい)この世界の成り立ちは 科学の原因と結果演繹法ではなく量子の世界では同時であり 今論においてはすべての現象が今のために成り立っていると考えるからそれゆえすべての場は今に収束されるように働きその現象が力となって現れ粒子性を持つと考えています どういうことかというとスリット実験を例にすると電子のような量子が波動から観測した時点で収束して粒子の痕跡として残るこれを波動の収束という これはいまだに説明のつかない現象であり現代物理学では波動と粒子の二面性という苦しい理由を作っている スリット実験のポイントは
一つの電子でも二つのスリットを同時に、通過すること そして、感光紙等に当たると粒子として、観測する そして、一つ一つの粒子を時間をずらして
発射しても感光紙上には、干渉波の軌跡を作り出すことである。私たちは、一つの粒子を決して波として、観測しない。たくさんの粒子を波という現象で、観測することは、あるが、それは、粒子の集合体としての現象であって粒子に変わりはない。例えば、水の波でも、水分子の集合が波の現象として、現れてるだけで、粒子に変わりはない。それは、二つのスリットを同時に、一つの粒子が、通過するはずはないから この時は、現象として波である。何が違うのかというと、観測が違うのである。
観測するときは時間必ず粒子であることあたる直前までは波であってもだ 考えてみると我々が見える世界は粒子が作り上げる
この現象は実は我々観測側の実験場とか意識場とも言うべき場を 想定しないと説明がつかないということだ なぜかと言えばスリットの実験で片方を観測する時 航跡がなく スリットを通貨しない時 もう 一つのスリットを通過する粒子は片割れを通過しないことを
どうやって知るのか?通過した粒子は片方を通過しなかったことをどうして知るのか これは粒子に関わらない観測である それを知っているのは観測者のみである つまり意識である 単なる実験装置ではなく意識場の介在があって初めて理解できる 粒子を確認できなくても観測して存在を確認でぃなかったこと自体 観測でありこの観測は片方のスリットを通過しなかったと認識するだけであります その認識は意識のみでわかることで実験事実には痕跡がない つまりその結果がわかることは意識のみである それを通過した粒子を知ることはその意識からのみである
これをどう理解するかだ! 私の考えでは粒子は観測するまでは不確定場で観測した時確定場になる スリットによってではないということだ
実験装置は不確定な材料からある期待された予測を引き出す我々の意識が作り出した場そのものです 期待された結果が引き出されるように観測装置で我々が観測しなくてもある意識のレベルで観測しているということである 意識場 とは実は粒子側には何もなくてこちらの観測場の方に条件があるということだ 我々は勝手に電子は波だとか粒子とか想定していますがそう決めて実験場を作り観測場期条件を与えられ観測場とも言うべきスリットを通過するときスリットの条件に合うような波動状態になり感光紙にぶつかるとき感光紙の条件に合うように結果が出るということをなのです 我々は何か想定しないとそれに期待される結果をだせません 電子とは何
か 波か粒子か?など経験則で想像して実験場を作りだしています 実は電子は何もわかっていないのです そのブラックボックスにこちらが条件をあたえているのです どういうことかというとまず波か粒子かわからないけどそのどちらかしか経験でしか知らないからそう想定して 電子を発射する時 方向性という初期条件を与える スリットを通過するときはスリットの形で水平方向の波動は拒否され垂直方向のみ二つに別れ 通過するという条件がスリットなのです 感光紙にあたるときは穴がないということ それは垂直方向も水平方向も拒否され観測するという時点も決定され波動は点として決定される つまりスリットでは横を X たてを Yとすると Xは限定され Yは限定されないゆえにまだ波動性があり感光紙では Xと Yは限定され時間 Tはわれわれの今であるから X Y Tと決まりそれゆえ波動性は消え粒子として収束するのです
スリット実験では電子は不確定場の存在でつまり何も決まっていませんがとりあえず波として というか波しか経験で想像できないので波動として ただ進行方向の規定のみしてあります つまりZ方向です それがスリットを通過する時二つのスリットが開いていれば 二つの両方を通ることつまり波であることを期待することつまり干渉である 感光紙などにあたる時はX方向 Y 方向が拒否されつまり期待され波動が粒子に収束する現象なのです
逆にいえば観測しない時はブラックボックスであり後はその実験場の要請により 結果はその要請に沿う形ででてくるといjことなのです もちろん期待する結果にならないというのもそのひとつの結果です それでは科学にはならないではないか?都合のいいいいわけではないか?といわれればそう聞こえます しかしここが大事なことなのですが我々は何か結果を出す時何かを想定しています しかしその想定は経験から知った想定なのです 経験とはこのマクロの世界の体験です しかしこの体験を究極の粒子まで当てはめようとするのです
ここに大変な錯覚があります そうではないのです 逆なのです 本質は還元主義にはないのです しかし何か本質の決まりがないとこの世界はあらわれないのでは? 哲学的な話になりましたがここが一番大事なところですがここは意識の問題になりますので別項でお話します
何かを観測するということは不確定場の対象をその期待される測定結果がでる条件が観測場に与えられったということなのです 期待されない結果だとしてもそれはその実験に対応した結果であり実験装置はそれ自体が我々の意識場が作り出した観測場であり我々自身がそれを観測しなくてもその実験そのものが一つの観測場を創りだし観測するということです これは意識レベルの説明がいりますがそれは顕在意識だけではなく無意識の世界 潜在意識までその実験場を了解して顕在意識がしらなくてもその結果は潜在意識が観測しているというわけです そしてその条件に従うように量子は現象としてあらわれるのです これは、逆の発想をすれば我々生命の成り立ちが粒子としての体をもつ つまり今を持つ故あまねく波動として宇宙が存在しても現象をとらえるときその今に収束しているというわけです 一人一人の人間がその体を持つ故 X Y Z Tが決定されその意識場にそれぞれの世界が収束するわけでその一つ一つの世界が微妙に重なり構成されこの宇宙が成り立っているというわけです 共通の認識場つまり実験場はそれゆえほぼ同じ場を近似的につくり我々はそれを共通認識して結果を出すのです ただ何度もお話ししたように在るという認識ではるかレベルの底に近い認識で脳の表皮皮質で感じる高度のレベルではなく脳の奥底で感じるレベルです よく月は見てないと存在しないのかという量子問答がありますがその答えははるか低位レベルの在る にかかわることで顕在意識とは関係ないことです つまり意識でもたくさんのレベルがあることがまだ科学では解明されていないことが量子問題が意識の壁にぶち当たるのです シュレーディンガーの猫という有名な話しがありますかこの箱の中に猫を入れ確率的に毒を飲むか飲まないかという思考実験ですがこの場合も観測する前は猫が波動状態かどうかなどやかましいですが猫はマクロですからたくさんの意識レベルで成り立ってます ですから箱で隠しただけではすべての意識レベルを隠したことにはならないのです 我々の表面レベルの意識が認識できないだけでその下の層のレベルは猫の存在をわかっているのですですから箱の中の猫は波動レベルではなくちゃんとした猫として存在しています 当たり前の話しです
つまり意識にはたくさんの階層があるということがまだ解明されていないだけなのです
このたくさんの意識が作りだしたのが"今"なのです
この一つ一つの意識場が微妙に違う時間空間の集合体がこの世界を創造しているのです 今論では時間の流れは存在しない 時間の流れは観測により生じる見かけのもので 詳しいことは”観測とは何か”をみてください ”今”は時間量も持ってそれは一瞬である時間要素である すべての現象はこのたくさんのレベル層に現出した一瞬という時間要素をもつが 光は時間要素をもたない唯一の存在で質量をもたない しかし光を観測することにより観測により時間が発生して客観的には光速度を持つ 相対性理論によれば光自体になればどこへ行くにも一瞬であるというより時間がない 観測場において速度が測定されるということはこれは意識側の問題ということであり つまり意識の流れが光速であるということでありその現象として光が速度を持つと考えるわけである この速度が 300000キロといわれる相対性理論によれば光速度であり今論によれば意識レベルが違うとこの光速度は同じであっても時間レベルが違えば見かけ上その速度は違って見える 光の速度が違うなどは鼻から笑われそうな話しではある なぜならすべての科学理論が成り立たくなくなると思われるからである しかし注意してほしいのはすべての観測基準が我々人間時間のレベル基準でありそれはわれわれの今である 小さな生物例えば昆虫がこの空を星を宇宙を知っているとは思えないわけで大きくとらえても林の世界しか知らないと考えられる もちろん細菌はそのミクロの世界しかわからないわけで人間の存在そこに住む体の存在などはわかるわけではない つまりレベル層によってその感覚でとらえる世界はまるで違う この違いはそこを流れる時間の違いである 何度も注意してほしいのは客観的な時間の流れではなく一瞬一瞬の時間量の違いでありこの感覚が絶対量基準となっているということである これが今論である ここで考えるのは、光は時間次元を持たないがこの世界では速度を持つ この速度とは先ほどお話しした意識の流れ原因と結果のことでありそれゆえこの光の周波数はこの世界の根底にかかわる一つのパロメイターではないか 我々レベルでは可視光線がこの世界を視覚化させているわけであるがレベル層によって周波数はその世界を形作っている源になっているのかもしれない まだそこまで科学は発達していないので可能性の問題であるが今論ではこの世界の根底にかかわる要素ではないかと考えている
重ね合わせ
重ね合わせという量子特有の性質について考えてみる マジックミラーのような半透鏡では光はちょうど半分の光が透過し 半分の光が反射する鏡だ
この鏡を使って重ね合わせの説明が量子論で出てる この半透明の鏡に強い光ビームを入射すると二つの光ビームへと分かれる この二つの光を別のルートからまたぴったり重ね合わせるこのような装置を干渉計と呼ばれている 詳しい説明は専門書に譲るとして問題は単独の光子がこの干渉計に入射したとき観測しない限り二つのルートを波として伝わりどちらかのルートを観測した瞬間光子は収束し波としたの性質は消え粒子として観測されるという問題です スリット実験でお話したように数々の実験から光子波として二つのルートを伝わるのは認めざるを得ない しかし観測すると1点に収束してしまう観測とはその光子が真っ向から感光紙などにぶつかる などすることを意味している つまりX Y Z とT 時間が決定するということである 私たちは、物質という肉体ですべての世界を感じるわけで波というものは感じるものではない 感じる時は粒子として感じるのでありそれは我々の持っている肉体からこの世界をとらえる一つの限界とも考えることができる なぜなら我々は粒子の形でしかこの世界を感じること見ることができないからである それゆえ物質としてしかこの世界を見ることが感じることができない ですから実験データとして観測するということは粒子としてしか残せないということである ということはこの例のように感光紙で最後の粒子観測をしないまではわれわれの場ではなくもう一つの違う場であるということである 観測しない実験場においては波動(我々はそれを波動と呼ぶしか知らないのであり 一見連続してそうだが違う場であるということである 我々はその 1点に収束した粒子としてしか確認できない世界にいるということである 不確定性理論によると例えば電子スピンのような量子現象のもつれは一つの電子のスピンが決まればもう一つはどんなに離れていても瞬時にスピンは決定する それはコインの裏表のようなものである コインを投げて表が出れば同時に裏が決定する この決定は瞬時であるから時空を超えて瞬時でなくてはならない どんなに離れていてもこのスピンのもつれはコインの裏表のようなものでなくてはならない これは不確定性理論から出てくる結果である スピンは角運動量のことで最も本質的な量である
泡箱
物質の存在を認識するということは同時に時間の存在が生まれるということである 物質があればそのまわりに場があるということでありつまりこの三点はワンセットであります しかしながら不確定性原理から素粒子クラスまでいくとその存在は場に拡がり粒子としては確認できないでしょう ということは時間も場も不確定の世界であります 直接見ることは原子のスケールでもありえず分子が巨大になった時見え始めるのでしょう 霧箱や泡箱 感光板などはその粒子を直接見ている訳ではなくある媒体をとおして見ているわけで肉眼でみえるクラスまで拡大しているのです しかし泡箱などで粒子の形跡を残すのはなぜか それはその媒体が観測場となりその不確定な存在を測定しているからであり粒子が走っている間 常にその媒体が測定しつづけているため その存在が拡がっていくことができないからなのです その媒体が測定しつづけるとはその媒体が我々が作り出した存在であり我々の意識レベルで認識した存在でありますから我々が直接確認しなくてもそれは測定していることになるのです
入れ子構造
この世界は時間量の入れ子構造である 大きな箱を開けると一回り小さな箱が現れ その箱を開けるとまた一回り小さな箱が現れる こうしてどんどん
小さな箱となりプランク時間までたどり着く 重要なことはあたりまえだが中の箱は開ける箱よりもう一回り小さな箱になるという制約である
そして開いて初めて中がわかるということであります つまりそれぞれが不確定場にあり 開けるとは観測するということです そしてこれらのことは同じ一瞬を持つ つまり”今”に収束されていることです このような条件が生命の成り立ちには必要でありそうでないと生命は偶然の連続となってしまうからです というのも分子生物学を少しかじっても アミノ酸からたんぱく質の生成まであまりにも精巧でとんでもない複雑であります これを解決するには大きな箱の制約 条件の下に小さな箱が現れると考えなくてはならないと思うのです そのためにはこれらの入れ子構造が”今”の不確定場の重ね合わせになっているということ 重ね合わせとは観測して初めてその存在が決定されるということです つまり存在とは時間量の量子的重ね合わせです 観測とは大きな時間量から
それより小さい時間量を測定することです この測定は時間量の大きさと大きさとともに粒子の干渉から不確定場の進化を遂げて意識にいたるわけです 前節でお話したように細胞の中では不確定場を守るDNAの核や
それを取り囲む細胞膜までは観測しなければ不確定場が維持されている必要がある これが核膜や細胞膜の役目でありますがそこからこの不確定場が感覚へと進化していったと今論では考えるのです したがってなんらかの原始的感覚から感覚 そして人間のもつ意識までは観測は感じることへ質的変化をとげるのです
したがって生命体が外的要因で怪我をしたり細菌に攻撃されたりしたらその変化に対応するため感覚が作動してそれが細胞からDNAまで入れ子構造のように不確定場の箱を開きそれに対応する抗体やたんぱく質を
作り出すのです この場合は時間量は意識から肉体 臓器や肉体の構成物質 つまり細胞群 そして細胞内
伝達蛋白 酵素などから核子そしてDNAまで時間量が変化するつまり観測するわけでそれに対応する遺伝子を読みそこからアミノ酸 たんぱく質をつくりそれを細胞外へ送るまで数え切れない酵素たんぱくがその仲立ちをするわけです
観測とは
まず意識レベルについてお話しなくてはなりません
観測とは上位レベルから下位レベルを測る事 上位レベルとは時間量の大小の関係です 上位レベル(大)には、下位レベル(小)を測る選択のバリエーションがある しかし、下位レベルから上位レベルでの選択は、限界がある。それゆえ、上位レベルの全体は、わからない。例えば、人間が、犬の観測をすれば、その犬が、何をするかの観測予測は、推測できる。
それは、犬の行動予測がわかっているからである。 犬の心の予測もたてられる。もっと下等動物でも、同じである。人間から見れば、これらの動物は下位レベルである。決定できなくても、選択の可能性は予測できる。しかし、犬は、人間が、何を考えているかその複雑な心理は、読めない 上位レベルから下位レベルへの観測はどのような条件を組み入れるかということに決定される。その条件をいろいろ選択できるということが、可能である。その逆はできない。素粒子の観測ではある予測の元に実験場での条件を与えそれにそうような結果をだす もちろん出なくても測定するのは運動量とかその位置とかようするに時間 座標 質量に関わる値である そのような実験結果を出すような場を作る それはそうゆう性質のものだと我々は知っているからである その心などとは考えない 動物にはその心はと考えそれなりの実験場を作る 決して素粒子のような結果は期待しない、これが選択という意味である 逆に 宇宙を観測する これは、我々を
下位レベルとして、上位レベルを観測することにあたる しかし我々の今は広大な宇宙と比べればほんの一瞬です 全体を見渡せないということです。宇宙といえど
今論では、ただ、100億光年たとうが宇宙レベルでは、一瞬である。しかし、人間レベルでは、その間に、100億光年時間がすぎている。つまり、100億光年たった人間レベルの今と宇宙の一瞬が、今で重なるということである。我々は、これを、場の拡がりとして、認識する。場の拡がりを観測すると、それは、空間のことである。我々の感覚を通してこの宇宙を観測するとそれは、空間として、認識する。おわかりいただけるでしょうか。、つまり、空間とは時間量のことである。逆に、いえば、時間量とは我々の感覚を通して空間として、認識される。
時間の経過とは各レベルで質的変化をする なぜなら、時間量とは何か。このことは、まだお話していません。時間量とは時間の流れではありません。
時間の多い 少ないということではありません。私たちの意識の流れが、時間として、計測できる。というこれが、私たちの時間のことなのです。
つまり、私たちの意識の流れの中で、この世界を、観測すれば、それは、光の速度が30万キロで、時間を定義できる。ということで、意識の流れは、各レベルで意識量として、質的変化を伴うのです。なぜなら、意識とは量的変化ではなく質的変化であるからです。これを、わかりやすく式形式で、表わすと
ML^2/観測=ML^2/意識量=ML^2/時間の経過=ML^2/T=プランク定数 (人間レベルのT)
このように分母にTを持ってくると、人間レベルでは、普通の時間となり、運動量とかエネルギーとかに解釈される
例えば 1000/100=100/10=10/1
のように分母にすれば同じ意味になってしまう 分母にしなければそれぞれの100 10 1 はそれぞれ意味を持つというか もたせてしまう
この認識する。という質的な量は各レベルで違うわけで、これを、感覚のバリエーションとして、考えると、これが、質的変化のことである。
何度もいうがこの最初が力の現象として表され有機分子を作り細胞を作り体を作り、最後は、生命の意識にまで変化していく。これが、時間量の質的変化である
時間量の質的変化とは
このテーマがこの今論のメインテーマであります
私たちが、観測しているものは、今なのです。過去ではないのです。ただ、各レベルに時間量の違いがあるため、少なくとも、私たちレベルでは、一瞬の時間量から
同レベル以下のものは、変化したり、動いたり、することを確認することができる。私達のレベル以上では、一瞬の今は、大きな時間量のため、我々の今では、把握できない。それゆえ、観測ができない。観測できない場を知覚するときそれを空間と呼ぶ つまり、宇宙空間である。我々の今レベルでの現出している世界がこの環境である。
例えば、車は、我々は、走っていることが、観測できる。この場合、こま落としのように動いて見えない 連続して見える。これは、一瞬量が時間の幅を持つためであり、その変化が動いて見える。というわけである。一瞬一瞬の時間の幅があればこそであり、この幅つまり、一瞬の不確定があればこそ、私たちには、その車が走っているように観測できるわけである。これは、下のレベルでは、その方向性とか、速度とか、観測予測ができるわけであるが、上のレベルでは、我々の今よりも時間量が大きいため、我々の今、以上の世界は、観測できないというわけで、つまり、観測とは今を観測する。という意味であり、上位レベルから下位レベルの方角ベクトルを持つことであり、上位レベル方向へは本当の意味の観測ではないのである。観測とは観測したものに影響を与える。ことであり、何ら影響がなければ、それは、観測したとは言わないのである。言葉の表現としては、そういうことや関係なく、観測は単なる見るも観測であるが、物理学的観測は少し違うのである。顕微鏡で虫を観察しても、その観察する場を観測できるように変えなくてはならない。細胞やそれ以下のミクロの世界ナノの世界素粒子の世界観測が影響を与える。量子ゼノン効果等もそうである 互いに接触するのも、観測であり、
接触することから、感じたり、力関係が、およんだり、これらは、すべて観測である。この場合、この観測の意味は、量子力学で説明される。観測の広義の意味ととらえてもらって、構わない。上位レベルは下位レベルへ観測しつづけている それが、今、を成立させ、その現象が、力であったり、感覚であったり、するわけである。
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