感覚は想像できない  感覚とは

感覚は想像できない。

経験した感覚以外は想像できないということである どういうことかというと具体的に視覚について考える

映画のスクリーンに例えると視覚と少し違うことがある それはスクリーンの境い目が映画はわかるということである スクリーンの外は真黒である 我々の眼はどうだろう?見えないとこと見えてるとこの境い目がわかるだろうか。瞼の上は黒くなってない!何もないのである!境い目が分からない 人間の感覚では目の境い目は 黒くならないないのである 見えないということは色も無いのである何もないのである しかし、天井があるのはわかっている それは経験で知っているからである もし経験がなかったら想像できるであろうか?見えてるところがすべてと認識するのではないだろうか これは私たちがこの世界が三次元の 360度全部見えていると

思い込んでいるだけかもしれない この世界を 360度以上に想像できないからである これはほかの感覚器官でも同じである 味でも甘いからい苦い酸っぱいあとはうまみ?それ以上の味を想像できるであろうか

においは何万種類とわかるらしいが経験したごと以上の新しい感覚は想像するとかできない

何を言いたいかというと我々の世界は感覚によってつくられたイメージでそれ以外の世界があっても感知できないということ たとえ目の前に何かが存在してても五感では感知できないとしたらなにもないと同じことだ

 この想像できないということが、]人間の発想の限界である。 それ以外の感覚がわからないからこの世界の仕組みを科学的 実験的という結果に求めることになる。しかし、これも意識レベルへその感覚が上がってきたときのみである。顕在意識に上がってこなかったら、感覚は何もないのであろうか。痛いと感じなければ、細胞レベルでも 何も感じないであろうか。何も感じてなくても、体に細菌が、進入しても、それを免疫抗体が、その細菌と戦い体を守っているわけであり、常に体温は、同じレベルを調節しているわけであり、顕在レベルにこれらの感覚が上がってこなくても、細胞レベルでは、何かを感じ取って年中無休で働いているわけである。少し上の肉体レベルでも、内臓は無意識に動き 手足も命令しなくても、勝手に歩いたり、触ったり 各レベルでこの肉体を守っているわけであります。これらの動きは、何の命令で動いているのでしょう。システム的にそうなっているのだと簡単に考えるわけにはいかないでしょう。人間レベルでは、情報により、動くということは、考えられますが、このレベルでも現実は、何らかの衝動があって行動を起こすわけであって情報だけで、体が動くということは、ありません。

この世界は我々の観測を通してのイメージである 波動ではなく粒子として現れた世界である

五感をとおして粒子現象として現れた世界である これはスリット実験では感光紙にぶつかった結果としての世界でありスリットを通過した時点ではない その時はまだ波であり粒子として確定していないからである 観測とは感じることである 情報を得ることではない 渡り鳥が季節の変わろうとする等、大移動起こす これは、本能で説明される。しかし、本能とは何か。 それは、その時期になると、ある方向へ飛びたくなる衝動である。

単なる記憶や情報等では、移動するわけなく そちらの方面へ帰りたくなる衝動である。こうした本能はすべての生物にある  動物の本能などは何かわからないけどそうしたい衝動で動くのであり 損得や情報を得て動くわけではない 雄蜘蛛やかまきりなど雌に食べられてしまうかもしれないのに地被いて交尾しようとする それはそうすることに何かニヒルなサデスチックな快感でもあるのであろうか?いやこれは人間様のかってな想像ではあるが

何か衝動があるであろう 決してそうしなくてはならないという理性的動きではないはずだ つまり情報ではない こうした何かを感じるという感覚が単細胞生物までは初歩的な感覚であれ あるのではないだろうか アメーバーやゾウリムシなどを観察しているとそう思えてくる 人間でも同じで、行動を起こすときは、衝動であり、決して情報や、記憶で、行動が起きるわけではない。どんな時でも、何らかの衝動がある 逆に言えば、生命の根源的要素にこの衝動が関わっているということではないだろうか。それは単細胞生物までさかのぼるのではないだろうか。ただ客観的な説明はできない本質的感覚なものであるから説明は難しい。人間クラスになるとその衝動が感覚から感情へと進化してゆくと考えられないだろうか。 下等動物では、感情ではなく、感覚で、あり単細胞生物まで行けば、感覚というよりも衝動と言ったほうがいい。ここまで来れば原始的衝動ともいうべき何かだろう。逆に、この衝動が進化して感覚となり、もっと進化して感情となりもう一つ上の感動となる。このように考えると、生命の感じることにあと一貫性が出てくることが、推測される。、、

この感覚とは観測のことである ある基材に観測を通してある影響を与え その反応としてなんらかの期待されうる結果を得る これが観測である 人間の体でもたくさんのレベルで成り立っている 体からたくさんの上がる事件の中でその本当にわずかな事件だけが顕在意識の浮き上がり感じるという観測を惹き起こす 細胞レベルでは感じられない無数の事件ごおこっているはずである 細菌と白血球が戦ったり細胞を修復したり体のバランスを調節したりこうした反応は顕在意識レベルまで上がってこない しかしこうしたたくさんのレベルが”今”に重なり生命を造りだしている

いわんや細胞レベルで知性があるわけではなく、情報で動き出すはずはなく、何らかの衝動があるはずです。犬や鳥や下等生物では、感覚で行動しているのはわかりますが魚の群れを見ていますと、全体として、一瞬で向きを変える 決して先頭の魚が、向きを変え、徐々にその情報が、伝わって変化していくわけでは、ありません。

分子生物学を少しかじると このレベルでは、とても複雑すぎて、すべてシステム的に成り立っているなどととても思いません。各レベルで何らかの感覚が生じていると。考えるほうが、遥かにわかりやすいと 思われます。しかし、その感覚が想像できないからシステム的に解明しようと 努力しているわけですが、その本質は、感覚にある故なかなか難しいというところでしょう。現代科学では、何らかの偶然で細胞ができ、そしてそれが、集まって肉体ができ、神経ができ、感覚も生じる。というシステムと偶然が、重なって生命は生まれたと考えています。まあ何と説得力のないお話でしょうか。しかし、感覚そのものが科学的ではないという理由により、無視されている。今論では、この感覚の初期の段階が電磁気や強い相互作用 弱い相互作用 重力等の力として現れると考えます。とんでもない考えだ ついていけないと お思いでしょうが ちょっと待ってください テーマはこうです この力がどのように感覚 意識まで進化してきたか?今論では今に収束してすべてが成立していると考えます 初期レベルでは力の現象として現れそれが共有結合から有機分子が作られそれが細胞をつくりその細胞が分裂をして

細胞体を作り生命体が創造される その流れの根底に感覚の進化があると考える その感覚は初期レベルからなくては逆に今論が成立しない というわけです

   

   身体レベルとは

   身近な自分の肉体から感覚を分析してみよう

細胞レベルと肉体レベルでは微妙に感覚が違うだろう

細胞レベル 接触感 弱いチックとした痛み 

細胞集合体レベル(臓器 肌など) 痛い こそばゆい かゆい 暖かい 熱いなど

肉体レベル  激痛 暑い 寒い 快感

生命統合レベル (顕在レベル) 苦痛  嬉しい  気持ちいい 

他者との関係まで含めて 感動 悲しい 充実 憎しみ しっと 

このあたりはいろいろご意見が分かれるところですが あくまで顕在意識に上がる感覚ですが こうしてわけると 細胞から全体まで感覚といえどこのように感覚も変化してゆくことがお解かりいただるだろう こうして見ると各集合レベルのスケール感が感覚の違いとなってくるようだ 細胞レベルでは感じた感覚が顕在意識まで上がってくるかどうかということで感じていないのではなく統括レベルまできてもそれ以上の刺激がほかにあればその細胞レベルの感覚は感じないだろう しかし細胞レベルでは何か感じていると考えられます  そのレベルで は細胞が感じているのですが たくさんの信号が体の各部から上がってきてもその一部だけが顕在意識に生じるのです しかしその感覚は大脳皮質まで感じるのですがそれはその感じる部分が自分の体であり  必要な時防御反応を総動員して対応するため 脳がその総合指令をしているわけでそのために脳があると考えられます 危険に細胞そのものが対応してその危険は感じているのですがその刺激は体全体に知らせるため神経が必要なのであって単なる刺激を伝えるためではないのです

それはくらげや単細胞生物などは神経がありません それでも外界からの刺激に反応するのを観察してもわかります つまり細胞そのものは何らかの刺激を感じているのです

どんな刺激なのでしょう?感覚は想像できない 痛いとかそういう刺激ではないでしょうが何らかの感覚を人間と同じように電気信号に変える構図は同じでしょう 当然それは細胞膜そのものの働きによるものでしょう 

imaron1 今論 生命とは 主観性と客観性の統合

この理論はたくさんの次元を導入したり素粒子のようにそのも元は力子を説明するため新しい粒子を予言したりパラメーターが増えていく なぜ増えるのか それは客観性のためでしょう 大体主観性を無視して理論を構築したところでこの世界を統括して説明するというのには無理がある 主観も組み入れ理論を統合しなくてはできないとかんがえ考えなくてはいけないと思います 今論はそういう意味でまったく新しい論理です 主観と客観

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